忘れもしない昨年の7月22日。ヒロくんが初めてデイに行った日から、いつの間にか一年近い月日が流れました。
散々の紆余曲折、私の心の中では清
水の舞台から飛び降りた思いで、デイに送り出したのですが、そんな心配をよそに、
大喜びでデイ通いを始めたヒロくんの姿が、眩しく光っていたあの頃。
初日の夕方、
送迎車から降りて来たヒロくんの嬉しそうな笑顔は、私の脳裏に焼きついて離れません。生きて行く希望が見えた瞬間でした。
このまま、年月が流れてくれれば・・・・2年、3年、いえ5年、いえいえ10年が経って、Nホームの主になっているヒロくんの姿を密かに想像したりしたものでした。
でも、
残念ながら現実はそう甘くはありません。
認知症の経過は、10人いれば10通りの道があり、どんな名医さんでも、先の事を予測するのは難しいと言われます。
だから・・・・楽観していました。
目の前のヒロくんが、出来ない事が増えて行っても、元気で明るく笑っていてくれる事が多かったので、悲観的な将来はあまり見えて来なかったのかもしれません。
だから・・・・・・絶望に閉ざされて、苦しみもがくヒロくんの姿など想像出来なかったのです。
緩やかな変化に加速度がついてきたのは,いったいいつ頃からだったのだろう?
昨年末までは、確かに、喜んでデイに通っていたと思うし・・・・
お泊りも嬉しそうだった。
12月19日に、
愛犬シロちゃんが死んでしまった・・・・その13日後に
クロちゃんも死んでしまった。
年が明けてから、だんだんと夜眠れなくなってきた。やはり、長年飼っていた犬の死が影響しているのかしら?でも、ペットロスを起すほど、犬好きだった訳ではないと思うけど・・・
ちょっとでも気分を紛らわそうと思って、いつもいつも何処かへ連れて行った。お買い物にも行った。
お蕎麦も食べに行った。
もみじも見た。
さくらも見た。
山だって何回歩いた事か。私の頭に浮かぶ「可能な事」は全て実行した。
それも、だんだんと効果がなくなって来た。もう・・・・新しい犬を飼う事以外、何も思いつかなかった。
だから・・・・
・メグちゃんが我が家に来た。
ほんのちょっとだけヒロくんは嬉しそうだった。たまには、自分から言葉をかける事もある。オイ!って。
でも、そんな私の精一杯の努力をあざ笑うかの様に、病はどんどん進んで行くのです。
ダメダメ、そんな些細な努力なんかしたって、もう待ってやらないよ。今まで充分に時間をあげたでしょう。もう無理だよ。これ以上は待ってあげないよ。ほら、ここから先はもうどんどんどんどん転がり落ちて行くだけだよ。悪魔が小声で囁きます。
今日が何月何日だか分からなくても良い。時計なんか読めなくても良い。ウンチした後、お尻をふけなくても良い。何も出来なくても良い。
ただ、笑っていてくれればそれで良い。笑えなくても、穏やかな表情であればそれで良い。穏やかでなくても、普通の表情でいてくれればそれで良い。
遠慮がちで控えめなこんな小さな願いさえ、もう聞き入れられることはないのでしょうか。
「機能の後退には慣れるけど、どうにもしてあげられない本人の苦しみは、心の奥底に堆積して行く。」
最近発見したちょっとお気に入りの理論です。
そんな訳で、私の心の中には、ヒロくんから発せられる苦しみのオーラがうず高く堆積し、だんだんと息苦しさが増し、このままでは窒息してしまうと感じたので、ぎりぎりまで我慢した挙句、デイの日数を一日増やしてもらえないかとケアマネYさんに相談しました。
Yさんは、「週5回・・・・・本人の負担が大きくなるかもしれませんねぇ・・・・」と、ちょっと渋ったお返事でした。
Yさんの言葉は、私にはちょっとショックでした。やはり、私の本当のしんどさは伝わっていない・・・
フン! けあまねーじゃー なんて言ったって、家族の本当の苦しみなんか分かってくれないんだわ!
なんて、毒づくつもりはありません。
Yさんは、いつもいつも親身になって考えて下さっています。ホームでただ一人の若年性であるヒロくんを、心から気遣い、何とかより良い方法はないかと思案し、私の事も随分気にかけて頂いています。
私が、泣きながら「もう苦しくて苦しくてダメになりそうです。助けてください!」とでもアピールすれば良いのかもしれませんが、つい先日も、私を気遣っていただいたYさんに対して、「私ですか?・・・・・・・まだ・・・・・・大丈夫ですよ。」としっかりした声で答えてしまったばかりですもの。
この素直でない性格は我ながら困ったもんだと思います。
でも、結局は、もし途中でどうしても無理なら迎えに行く、と言う約束で7月からデイ通いを一日増やしてもらう事が出来ました。
そんな訳で、私が24時間ヒロくんと共に過ごすのは、週に2日だけとなったのです。
たったの・・・2日。それでも、この僅か2日が、比較的穏やかに過ぎ行く時は良いのですが、修羅場と化してしまうことさえあるのです。
たとえば・・・・・・
先日の日曜日は、かなり危険な一日でした。
ヒロくんは朝から随分落ち込んでいました。最近は、薬を飲んでも飲まなくても夜中の眠りはあまり変わらなくなっています。まともに眠れる日などありません。
「もうだめだ。」朝からこの台詞が出ます。
この日、私は何故か冷静、いえ冷酷、冷徹でした。自分だけは何としてでも生き残らなくてはと心に決めたからでしょうか。
ヒロくん「もうだめだ。」
私「ダメって言ったって、生きて行かないといけないんだから仕方ないよ。生きて行くって、本当にしんどいよね。死ねたらこんな楽な事はないけど、死ねないから生きて行くしかないでしょ。しんどいけど仕方ないよね。」
ヒロくん「もうおわりです。」
私「終わりにしたいなら自殺すればいい。それが出来ないなら生きて行くしかないでしょ。」
ヒロくん「もうおわりです。」
私「じゃあ・・・自殺できる?」
ヒロくん「それはできない。」
私「そうでしょ、じゃあ生きて行くしかないよね。」
ヒロくん「こまったな。」
私「まあ、人生なんてそんなもんでしょ。皆そう思いながら生きているんだって。」
少しして・・・
ヒロくん「ねえ、もうだめだ。」
私「そう、じゃあ自殺する?」
ヒロくん「それもかんがえてる。」
私「もし、私達が自殺したらおばあちゃん悲しむだろうね。子供たちも一生重荷を背負って生きて行く事になるだろうね。」
一体、何と言う会話をしているのかと思います。もうだめだ、もうおわりだ、と言われた時には、いったいどんな言葉を返してあげるのが良いのでしょうか・・・・・?
認知症になると、何もかも分からなくなるから本人は楽だ、なんて言われることがありますが、ヒロくんを見ている限り、それはとんでもない間違いだと思えます。
わからないどころか、むしろ自分の今の状況を分かりすぎるほど良く分かっている様に思えるのです。
だから、こんなに苦しんでいる。こんなに絶望している。
「もう、どっかいっちゃう。もうおわりにしよう。」
ヒロくんはこんな言葉を口にしながら、一日中あっちへウロウロこっちへウロウロ動いています。それは、何処へ行っても自分の居場所が見つけられない、そんな感じです。
全然きつくない筈のズボンのゴムが、いつも「きつい。これがいやなんだ。」と言って脱ぎたがります。
「良いよ。何処へも行かないし、誰も来ないから、脱いでパンツ一丁になっても構わないよ。」
と言うと、「そう」と言って、本当に脱いでしまいました。いつもなら、直ぐに別のズボンを穿かせるのですが、その時はもう何もかもがめんどくさくなってしまい、そのままのスタイルにしておきました。ヒロくんは、ついでに着ていたポロシャツも脱いで、今度はそれを足に穿こうとしました。
そして、動き回るのに疲れると、じっと椅子に座っています。眉間には苦悩の皺が寄り、深い深い絶望に閉ざされています。
朝からずっと冷静に過ごしてきた私も、夕方頃には流石に疲れてきて、そんなヒロくんを見ていると、ここは精神病院か・・・などと思えてくるのでした。
そして、「もう、すみませんでした。」と私に対して頭を下げるヒロくんを見て、私はとうとう天国にいるヒロくんのお父さんとお母さんにお願いしてしまいました。
ヒロくんは、もう私と一緒にいるよりもそちらでお父さんとお母さんと過ごす方が、心が安らぐでしょう。私にはもう何もしてあげる事が出来ません。お父さん、お母さん、どうかヒロくんを迎えに来てあげてください。小さい時に可愛がって下さったのと同じ様に、ヒロくんを抱きしめてあげてください。その方が、ヒロくんにとって幸せなのかもしれません。長い長い一日は夜の8時に一旦終了します。漸く寝る時間が来るのです。でも、それは同時に朝までの長い長い夜の始まりでもあります。
今日はちょっと書きすぎたかもしれません。ちっともenjyoじゃないですね。ブログのタイトル変えましょうか?
書いてどうなる事ではありません。ヒロくんの状態は書いても書かなくても変わりません。
でも、とにかく書きたかった。だから、書いた。
そして、こうして書いていられるうちは・・・・・私は・・・・・・・・まだ・・・・大丈夫、と思えるのです。
でも、心配しないで下さいね。こんな日ばかりじゃありませんから。これは、先日あった最悪の日を記念に(?)書き記しておいただけですから。
翌月曜日は、お泊まりです。落ち込みの延長のまま送り出して、私はちっとも安らぐことが出来なかったのですが、火曜日の夕方には、笑顔で戻ってきました。
きっと、こんな事の繰り返しでこれからも流れてゆくのでしょう。来年の今頃、私はここに何を記すことになるのでしょうか・・・・・
そのころはすでに有料老人ホームに入所していました。
母は小学校教師として気を張って気を張って生きてきた人でしたから、社会生活をすることで人間としての質は保ったと思います。
家にいたら、ごろごろ寝ているか、暇をもてあましてどこかに行きたいというか、という生活だったでしょう。
認知症のことは、体験した人にしかわからない。
しかも、その体験も千差万別・・・
しんどくてしんどくてたまらない頃、
「神様はその人が乗り越えられない試練は与えない」
という言葉を人様からかけていただいてもむなしかったですね。
何の役にも立たなかった・・・
私も、火・木がデイ、金~日がショートというローテーションでやっていましたよ。
母が精神的に不安定だった間は、私も巻き込まれていたし・・・
母の不安定感がとれたのは、脳梗塞後、車椅子生活になった頃でした。
面会の帰り、必ずデパートに寄ってサラダスパゲティを食べていましたが、あっそれほどストレスがない、と感じたことを覚えています。
ただ、その後もいろいろいろいろあって、もっと大きなストレスを抱えたこともありますが。
ご主人様のお姉様から、「あなたのいいようにやってください」と言っていただいていることは、ありがたいですね。
私は、介護そのものはなんとかここまでやってきましたが、精神的に今でも乗り越えられないのが、私が弱っている頃に受けた心の傷です。
しようがない、と少しずつ思えるようになってきましたが、体は正直ですね。良くなったり悪くなったり一進一退を繰り返しています。
いつの日か、落ち着かれるときもくるでしょう。
家族に対しては、心の不安をすべてさらけだせる。
だから、受ける家族もしんどい。
このしんどさにつきあっていらっしゃるmomoさんはすごいですよ。
私ものめりこんだ人間ですから、よくわかるのですが、なかなか次の一歩が踏み出せない。
去年、食事介助がだんだん無理になってきて胃婁に踏み切りましたが、大きな決め手は、介護中支えてくれた友人が病に倒れたからです。
手術のときも祈ることしかできなかった。
母のことで身動きできないことが悲しすぎた。
母は私が元気になるのを見届けるために生きていてくれているのだ。
そう自分を納得させました。
結果は、今現在母が生きていてくれていることに感謝!です。
やはり私が健康を取り戻すまで見届けてくれるのでしょう。
ありがたい親心ですね。
いつの日か、穏やかになられる日がきます。
そのとき、momoさんもそばに寄り添っていてくださいね。