夫の帰宅日。
たまたま、孫が遊びに来た。
片言をしゃべるようになった孫は、部屋に入った時、目を閉じている夫を見て、「じーちゃん、ねんねしてる。」と言った。
その後、写真を見て、「じーちゃん、ニコニコわらってる。」とも。
夫らしい優しさに溢れた、私のお気に入りの一枚を壁に飾っているのだ。
一緒に果物を食べる。
2歳になった孫は、小さな手にフォークを持って、上手に自分で食べる。
66歳の夫には、私が口に運んであげる。
何時の日か、「どうして、じーちゃんは食べさせてもらってるの?」と聞いてくるだろう。

まるで、孫が遊んでいるのを見守っている様なこの一枚。
私にとって、一つの夢の実現には違いない。
夫が家に居て、尚且つ、孫と同じ空間に居る。
数年前の、不穏酷く、うろうろと歩き回っている時期だったら、このツーショットはありえない。
それが実現している、そんな夢の様な幸せが、心の底から溢れ出す。
そう感じている事は間違いないのだけれど、幸せであればあるほど、同時に、残念な気持ちが同じ位沸きあがる。
走り回れる位ひろ~いお部屋なのに、大きな大きな黒い椅子があって、何と無くいつもと違うね、
「じーちゃん」だよって言われたから、「じーちゃん」って呼んでみたけど、その大きな椅子に座っている大きな人は、ネンネしているみたい、お目目があいてないよ。
おでこに皺が寄ってるし・・・・・近くに行くの・・・・・・何だかこわいよ。と、孫が思ったかどうかはわからないけれど・・。
夫は、子供が大好きだった。
もし、
もし、
病気になっていなかったら、孫と遊ぶことを、どれだけ楽しみ、喜び、どんなに幸せを感じていただろうか。
そんな何もかもをなくしてしまった夫。

「おみやげ」と言って、持ってきてくれた手作りのお花を胸に刺してあげたけど、何の反応もない夫。
せめて、壁に貼った写真の様に、ニコニコ笑っていてくれたらいいのに。
孫から貰う癒しで、私が幸せを感じれば感じるほど、それに比例して夫への切なさが募る、
悲しみが増す。
やっぱり、夫には病気になって欲しくなかった。
二人で一緒に、孫と遊びたかった。
孫が帰った後、二人で一緒に、じじバカ、ばばバカの話をしたかった。
二人で一緒に・・・・・・

発病13年目、
長い介護生活が続く。
地獄のどん底の激しい時期が過ぎ去ると、とりあえずは平穏が訪れる。
そんな日常にもすっかり慣れて、ささやかな事に喜びを感じる天才となり、それなりに幸せに生きているつもりだ。
そう、
私は、これでいいんだ。
我が家はこれでいいんだ。
そう思って、わが身の不幸を嘆くことなく、人をうらやむことなく、欲も無く、
これでいいんだ、
そう思って生きている。
そう思っているけれど、
夫が若くして病気になった事、そして、ここまでの壮絶な日々、また、これから先も、永遠に回復することの無い現実、
それらは、消えることなく、また、綺麗に塗り替えられることなく、私の心の片隅、いや、もしかしたらもっと威張った位置で、永遠に存在し続けるのだ。
どんなに、私が、今の日々に、小さな幸せを感じて、それで満足していたとしても、それは消えることなく存在する。
そして、普段は影を潜めていても、何かあると、すーっと前面に出てくるのだ。
どう贔屓目に解釈しても、悲しい現実に見舞われてしまった事実は、私が生きている限り背負っていかなくてはならない。
「乗り越えた」振りしても、「受け入れた」振りしても、その事実は、そこにある。
重く、ある。
私の幸せは、それをひっくるめた上での幸せでなくてはならない。
修行、修行、
生きている限り、修行だと思う。
ずっと読者です。
68才の夫も若年性アルツハイマー病で、発病十年になるかと思います。
気持ちを整理できずに過ごして来ましたが、今日のブログを読み、
まったくそうだと思わずコメントしてます。
ショートステイ帰りの今日、近くの内科にインフルエンザの予防注射に連れて行きましたが、待合室でも診察室でもずーっと意味不明な声だしでしゃべり続けています。周りの視線に耐える事にも慣れました。
私はこれでいいんだ。わが身の不幸を嘆くことなく、人をうらやむことなく、欲もなく、そう思って生きている・・・
momoさん、今日のブログ、とても共感しました。