極上の三田牛が舞い込んできたので、夕食はすき焼きにしよう。
夫は、いつもと何も変わらず、良く噛んでたっぷりと食べてくれた。
発病13年、未だ衰えない咀嚼と嚥下が夫の命をつないでいる。
会話が出来ない夫、一緒にお出かけする事が出来ない夫、共に喜び、共に悲しむ事が出来ない夫、
そんな夫との唯一の安らぎの時間は、一緒に食事をしている時だ。
私が作った食事を、二人で一緒に食べる。
そんな当たり前の時間が、私たちに取っては奇跡の時間なのだと言う事を、改めて思い知った。
すき焼きを食べて、家に戻ってPCを開き、いつもの様に、ランちゃんパパのブログから入るが・・・
その日の記事を読んで、少なからずショックを受けた
花子さんと夫は、同じ様な時期に発症し、同じ様な経過を辿ってきた。
苦しい時、ランちゃんパパの頑張りから勇気を得た。
私だけじゃない、頑張ろう、と思えた。
天国に行ってしまったランちゃんからも癒された。
この病気は、100人100様。
誰一人、同じ様には進まない。
夫よりも、ずっと後ろを歩いていた筈の人が、亡くなったり・・・・・
そんなバカな、と思うことが度々あった。
UPされているミキサー食の写真を見て、ランちゃんパパの苦悩が伝わってきた。
栄養的には同じでも、やっぱり・・・・違う。
夫が急性期に入院していた時、きつい薬の影響か、誤嚥を防ぐために、どろどろの食事が出て、涙が止まらなかったことを思い出した。
じゃがいもやかぼちゃ、バナナだって食べられるのに・・・・・・
白いご飯にアンパンマンのふりかけをかけて、食べさせてあげたいだろうな・・。
あんなに、良い表情なのに・・・・。
穏やかに過していても、急に進む時期があるのだろうか・・・・。
あるんだろう・・・・きっと。
この先、何時になるかは分からないけれど、夫にも必ずやって来る、
食べられなくなるとき。
口から食べる事を忘れてしまうとき。
我が家も、延命はしない。
そう決めている。
絶対にしないと決めている。
ここまで苦しんできた夫を、この先、本人の意向に沿わず、人工的措置で永らえさせるのは本意ではない。
そう・・・・口から食べられなくなったら、そこが夫の死に時。
そのまま自然に逝かせよう。
夫も、絶対にそれを望んでいる。
そうしよう。
そうしてあげよう。
今は、そう、決めている。
今は。
ただ、現実にその選択が迫って来た時に、自分がどんな気持ちになるのかは分からない。
今は、
自然に逝かせてあげることが、私が夫にしなくてはならない、最後で最大の仕事だと思っている。
だけど、思うことが一つある。
例えば、年が明けたら93歳になる母の場合、
食べられなくなると言う事は、体全体が、もう栄養を必要としなくなってきたと言うことだと思う。
そんな時に、無理に人工的に栄養を送り込んでも、胃がそれらを吸収する事が出来なくなっている。
だから、高齢の場合、食べられなくなったら、そのまま逝くのが自然なんだと思う。
老衰、
あまり苦しむ事無く、老衰で死んでいけたら、何よりだと思う。
それに対して、夫の場合、
食べる事を忘れて、口から栄養が入らなくなった時、
首から下は、同じタイミングで衰えているんだろうか?
食べる事を忘れているだけで、胃は正常に動いていて、食料が入ってくるのを待っている、と言う事はないのだろうか。
もし、人工的に栄養を送り込んだら、胃は、待ってましたとばかりに栄養を吸収し、他の臓器もちゃんと機能して、体の維持が行われるんだろうか。
高齢の親を送る時と、まだ66歳の夫の場合を、同じに考えて良いのだろうか。
いざ、と言う時が来て迷いが生じるとしたら、こう言う理由だと思う。
栄養を送り込めば、まだまだ生きられる身体を持っている人を、そのまま死に向かうレールに乗せると言う判断が出来るだろうか。
そして、そこからの数週間、数ヶ月を、穏やかな気持ちで見守りながら過ごす事が出来るだろうか。
本当に、難しい。
苦悩は、深い。
そして、もし、
延命したとしても、決して元通りになる事はない。
ただ、命を永らえる、
それだけだ。
夫は、絶対に、「もういいよ」と言うに決まっている。
立場を変えて、自分なら、と思った時、やはり「もういい」と言うと思う。
だから・・・・・・
延命はしない。
今は、そう思っている。
だけど、その現実に直面した時、今思っているのとは、全く違う判断をしたとしても、その時の自分にがっかりしたり失望したりする事はしないでおこうと思う。
そして、その判断の中に、「私が淋しくなる」と言う言い訳を入れることは、可能ならば避けたいと思う。
何らかの判断をして、その結果が、たとえ思わしくなかったとしても、その時に、これで良い、と決めた事が、夫と私に取って、最善の道なのだと信じる。
何故なら、深い深い苦悩の淵で、悩み抜いて下したその判断は、心の底から、夫の為を思って決めた事だから。
命を預かる、
こんなに重いことは・・・ない。
すき焼きのお話から途中から非常に重いテーマになって私もいろいろ考えてしまいました。
家族が本人の意思がなくなった認知症患者の最後をどう迎えさせるか、それはその人の死生観と関係ある気がします。
仏教、キリスト教等宗教はそれぞれ独自の死生観をもっています。
また、日本人の場合、命に執着することを「恥」としこの世における名を重んじる武士道的な死生観も伝統的にある気がします。夫が認知症になったとたん生きる意味がないと大暴れしたのは、彼自身が武士道的というか生にこだわりたくないというニヒリズム的思想をもっていたことと関係がある気がします。私自身はそんな彼の精神を尊重してあげたいと思っています。
私自身は彼がいなくなっても彼がまいた種が色々な所で成長している、という輪廻に似た死生観をもっています。
momoさんがおっしゃるまだ生き続けられる身体を尊ぶ気持ちも理解できるし、それも一つの死生観だと思います。
長々とすみません。私は今日は家中を掃除します!
どうぞ良いお正月をお迎えくださいませ。