お昼ご飯に、
納豆食べる?夫は、またコクンと頷いた。
そんなに納豆好きだったかな?
冷や奴に挽割り納豆を丸一個全部かけて食べさせる。
一口食べると次を要求する様に口を開ける。
そんなに好きだったかな?
食べさせながら色んな事を考える。
なんでこんなに元気になったのだろう?
5年前に
施設に入った時、ここが終の棲家になると思った。
心の奥底に、いつか家に連れて帰りたいと言う思いをそっとしまい込んでいたが、誰にも言わなかった。
何年もの間、快適な通いの介護生活を送り、連れて帰りたいと言う思いは、次第に奥深く隠れて行った。
その間、我が家には少々の事情が発生し、実際のところ夫を家に連れて帰れる状態ではなくなっていた。
週一の帰宅も出来なくなった。
そんな訳で、夫は施設から一歩も出られない生活が続いた。
それから2年ほど月日が流れ、
母は亡くなり、諸事情が少しづつ改善されてきた頃に、夫が肺炎を起こした。
先生から、
夏頃までの命と言われた。
我が家の事情を総体的に考えてみて、「今なら連れて帰れるかも。」と思った。
そして、夫は
帰宅を果たした。
効く薬もなくなり、何もかもを放棄し、先生からもう僅かの命と言われた夫が、元気になって行くのを見て、ふと、この半年ほどの一連の流れが、全て夫の手のひらで転がされていたんじゃないだろうかと思う。
夫は、本当はずっと家に帰りたかった、
6年前の
7月23日に、引き裂かれるように家から連れ出されて以来、ずっとずっと帰りたいと思っていた、
そして、その日が来るまでひたすら
じっと耐えていた、
手足を
拘束されても、
胴体をベッドに
縛り付けられても、
車椅子を柱に縛り付けられても、
じっとじっと耐えていた、
施設に入って、理想的な施設に巡り合えた、などと妻が喜んでいる間も、
帰りたい、帰りたい、
お家が
いちばんいい、
そう思っていたのかもしれない。
だけど、まだ無理、
家の事情が許さない、
それが分かっていて、じっと6年の年月を耐えていたのかもしれない。
そして、色んな事情が改善しつつあった今年の春、あらゆるタイミングを見計らって、
肺炎になるのは、今だ、
今、余命を宣告されれば、きっと妻は自分を家に連れて帰ると言い出すに違いない、
そう思って自らの意志で肺炎を起こした、
そして、目論見通り、家に帰ってくることが出来た、
目的は達した、
ならば、そろそろ回復するか、
そう思って、納豆を食べだした。
私含め、H先生も、介護の方たちも、夫が元気になった理由は分からない、と言っているが、
実は、何もかもが夫自身が作成したシナリオ通りに動いているだけだったのではないか、
と、そんな馬鹿なことを考えながら、夫に納豆を食べさせている。
考えすぎ、
そんな訳ないよね、
と思ったが、一応聞いてみた。
お家に帰りたかったの?すると・・・・
そうだよ、と、言葉はなかったが、
夫は、はっきりと、頷いて、返事を返してくれた。
やっぱり、そうだったんだね。
ずっとずっと帰りたかったんだね。
義母が同じ病に罹患したことがわかった頃に、良くお邪魔して、コメントさせていただいた事もあります。す〜さんと申します。
ただ、一言だけ伝えてたくて。
おとうさん、おかえりなさい。
よかったですね。
この穏やかな日々が続きますように!