元旦の病棟は、人が少ないように思えた。
せめて正月くらいは、と、家に帰った人が多いのだろうか。
久しぶりに会う夫には、大きな変化は感じられなかった。
大晦日だ、元旦だ、と、世間では騒ぐけど、夫にとっては関係ないと見える。
24時間、時が流れただけである。
最近、缶コーヒーのCMがちょっと気に入っている。
「過去から延々と流れ続けている『時』に、人間は365日と言う区切りをつけた」
確か、こんな感じだ。
60数えて「分」と言う単位を付け、次の60で「時」にして、何故だか24集めて「日」にして、それが30だか31だかで「月」にした。
調整のために、28とか、29も入れてみる。
そして、それを12個集めて「年」と呼ぶ。
12月の次を13月にして、14月15月・・・・・延々と続けても良かったのに、12の次をまた1に戻した。
きっとその方が、都合が良かったからだろう。
古来より延々と続く悠久の時の流れさえ、人間は都合が良いように、区切りをつけてきた。
私も人間だから、大晦日にはそれなりの挨拶をして、年が明けると、またそれなりの挨拶をする。
する、と言うより、しなくてはならない。
夫は、そんな「人間の都合」を超越した所で生きている。
大晦日?元旦?
何それ?どうでもいいよ。
と、本人が言う訳ではないが、彼は今、間違いなく、「人間の都合」「世間の都合」など、ものともしない世界に居る。
「時」と言う絶対不動の物に人間が便宜上つけた飾りを全て取り払い、純粋に時の流れに身を任せている。
なんか・・・・ある意味、羨ましい。
ここから先の事は、分からない。
まだまだ、修羅場があるのかもしれない。
ただ、ここ数年を振り返ってみた時、夫にとって、私にとって、家族にとって、最大の味方は「時」だった様な気がする。
元旦の午後、私は久しぶりに会う夫の顔を覗きこんで言った。
お父さん、元気だった?忙しくて、ずっと来られなくて、ごめんね。
年が明けたから、やっと来られたよ。逢いたかったよ。夫は、
あ~、久しぶりだね。ずっと来ないからどうしたのかと思ってたよ。
そうか、12月だったのか、それは、忙しかっただろう。
来てくれて嬉しいよ。美味しいもの持ってきたんだろう。早く、食べたいよ。と、言ってくれた。
言葉ではなく、目で言ってくれた。
言ってくれた、様な気がした。
言ってくれた、と思う。
言ってくれた、と思いたかった。
都合良く解釈しておこう。
私は、まだ暫く、飾り付けられた「時」と共に生きてゆかなくてはならないのだから。



メグちゃん、今年もセラピーよろしくね!
今年も何とか暮らしていけたらと思いつつ
新年を迎えています
どうぞお二人にとりまして
よきお年でありますように