夫の決め台詞は、どんなドラマよりもドラマだった。
一夜明けた20日の午前中、私は病院に電話して、明日の入院を止める、と伝えた。
振り返れば、何回目のドタキャンだろうか。
ただ、これは、単に夫の決め台詞に動かされたと言う様な、お涙頂戴のドラマの脚本ではなく、じっくりと自分の気持ちを考え、また息子たちとも相談した末の結論だ。
これまでの長い介護生活でも、また、今回のドタバタ劇の中でも、夫には波がある。
そして、それと同時に私の気持ちにも波がある。
この二つの波は、共鳴している。
夫が良い波を流してくれれば、私も良い波を受ける。
でもこの頃の波は、殆どが心地よいものではない。
残念ながら、今の私は、夫から流れてきた悪い波を、上手くかわす程の大らかさや、正面から受け止めて尚動じない強さを持ち合わせていない。
そして、最近の夫の波は、大嵐ほどの強い波だったので、私はもう溺れそうだった。
その時に、Sさんから、浮き輪が投げられた。
私は、わらをも掴む思いで、そこに手をかけた。
これで、救われる。
でも、夫はどうだ?
何も変わらない。
夫には、残念ながら、助かる術が無い。(病気が治らない、と言う意味で)
彼は、与えられた苦しみの中で生きてゆくしかない。
それなら、私には何が出来るのか?
これは、介護しながらいつもいつも考えてきた事だ。
出来ることがあるなら、何でもしようと思った。
出来ることがある内は、何でもした。
夫が、少しでも楽しく過せる様に、
夫が、少しでも病気を忘れられる様に、
夫が、少しでも快適に感じられる様に、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして、年月が経って、夫の状態もだんだん変化してきて、
今の私が、夫に対して出来ることは、もう何も無いことが分かった。
好きな物を食べさせるとか、オムツを代えるとか、そんな事は別にして、夫の苦しみを少しでも和らげてあげる術は、何も無いことが分かった。
それなら、出来ることは?
傍に居ること。
共に、苦しむこと。
それしか思いつかなかった。
たまたまSさんがお休みだったので、看護師長さんに気持ちを伝えた。
夫にとって、また、私たち家族にとって、幸いだったのが、19日の夜は、夫が良く眠ってくれた事だった。
その後も、昼間は、不穏が激しくても、夜だけは大人しく眠ってくれている。
連続で、夜通し叫び声を聞く羽目になっていたとしたら、夫のあの決め台詞さえ、私の決意を翻すことは出来なかったと思う。
叫び続けた夜が例外だったとしたら、まだ行ける、そう思った。
考えてみれば、退院してまだ一ヶ月も経っていない。
まして、看取りの覚悟からのこの急激な変化なのだから、私自身、気持ちがついて行っていない。
この生活に慣れれば、もっと上手いやり方があるはずだ。
まだまだ、工夫の余地はあるはずだ。
入院は、何時でも出来る。
Sさんは、「落ち着いたらまた帰れば良いですよ。、病院を気軽に利用してください。」と、ありがたい事を言って下さる。
だけど、入院させる時はもちろんだが、退院させる時には、もっともっと膨大なエネルギーが要る。
ケアマネさん始め多くの人を巻き込んでの、一大プロジェクトとなり、何より自分の気持ちを強く強く持ち続けなくてはならない。
退院後の日々を振り返ってみる。
初めてゴックンが出来て、命が繋がると思った感動。
そこから、どんどん元気になって行く夫を見て、私は何を思ったか。
もっともっと元気になって、
美味しいもの一杯食べようね、
外の景色を見ようね、
お散歩にも行こうね、
一緒にTVも見ようね、
私がいつもそばに居てあげるからね、
せっかくお家に帰ってきたんだから、
せっかく命がつながったんだから、
ここは病院じゃないんだから、
話しかけてあげなくちゃ、
一人ぼっちにしては可哀想、
・・・・・・etc・・・・・・・・
冷静にこう書き出してみると、ちょっと、いや、かなりしつこくないか?
気合が入りすぎじゃないか?
これじゃ、続く訳がない、と、今思った。
そして、一旦、入院を決めた事が、私の心の中で良い作用をもたらしている。
寝室で一人ぼっちで置いておいても、病院に居るよりは良いじゃないか、と思う。
決して、病院や施設が悪いと思っている訳ではない。
職員さんは皆優しく、誠心誠意お世話をしてくださる。
何かあった時の対応も素早い。
沢山の専門家の目があって、安心だ。
だけど・・・・・
やっぱり、夫にとって、我が家に勝る居場所はないと思う。
今の夫の病状では、拘束はやむを得ない時もあるだろう。
叫び声を挙げる夫を、寝室に入れて、仕事に出かける時も、
本当だったら今頃、夫は病院で車椅子に縛られていたはず。
他の患者さんの大きな叫び声もこだましているあの病棟にいたはず。
でも、今、夫は自宅の一室で、外の美しい緑が眺められる場所に居る。
お気に入りのCDが聞えている。
私は、いつでも顔を見に、戻ってくることが出来る。
それで充分じゃないか。
今出来る、可能な限りの生活が出来ている。
と、思えるようになった。
いや、そう思うようにしている。
誤嚥は必ず繰り返す、と言われている。
明日にも喉に何かを詰らせて死んでしまう可能性もある。
だけど、もしかしたら、先の長い介護になるかもしれない。
長いのか短いのか、何もかも分からない介護生活は、正直なところ、本当にきつい。
身体を守るとともに、心の平静を保たなくてはならないのが、一番大変だ。
病院に入院するのもあり、施設に入るのもあり、家で看続けるのもあり、
結局、心と身体のバランスを保ちつつ、その時にできる精一杯をしてゆく以外にない。
介護に後悔はつき物である。
だけど、その時出来る、自分なりの精一杯をしておけば、「もっと頑張れば良かった。もっと出来たのに。」と言う種類の後悔は少なくて済むかもしれない。
そして、夫と苦しみを共有すると言ってみたところで、やはり、私と夫は別の人間だ。
夫はもうこの世では安らぎを見出すことが出来ないかもしれないが、それを傍で見ながらでも、私は、夫とは別のところで生きてゆかなくてはならない。
私には、子供たちが居る、年老いた母も居る、兄弟も、友達も、応援してくださる沢山の方々もいる。
そして、夫が残してくれた仕事がある。
自分が潰れる訳には行かない。
だから、99.9%までは頑張るけど、それより先は・・・・・
お父さん、ゴメンネ。
寝室からは、夫の元気な声が響いています。
それにしても・・・・
色んな事が、
はぁ~・・・・・大変だ。
夫は、何処へ向かっているのか・・・・・・
皆目、見当がつかない。
コメント
コメントの投稿